運命



「里美ー、お弁当できたからはやく鞄に入れちゃいなさい。」
「はーい。」

高級住宅地の一軒家。
ダイニングルームの大きな窓からは、既に眩し過ぎるほどの朝の日差しが覗いている。

里美はいそいそと、私が作ったお弁当を幼稚園指定の茶色いバッグに詰め込んでいた。


「早紀、行ってくるね。」
「健ちゃん。行ってらっしゃい。はい、お弁当。」
「ありがとう。行ってきます。」



何も不満はなかった。
若い頃思い描いていた「幸せな家族」そのものの中に、あたしはいた。
普通の家庭で、普通の恋愛をしてきた私が、健一と出逢えたこと。
健一が努力の甲斐あって昇進し、結婚できたこと。
里美という素直な一人娘を授かったこと。
そのすべてが幸せすぎて、怖い位だった。



「パパー。パパーぁ。」
「里美、どうしたの?パパはもう会社に行ったよ。」
「…パパァァ---ぁ!!!」

里美が泣き出しそうな顔で、玄関を飛び出して行く。
ぽかんと立ち尽くす私に、里美のかわいい声が聞こえてきた。

「パパああああ!!!いてらしゃ-いのちゅうしてないよおおお!!!」

もうご近所に響き渡るくらいの大きな声に、苦笑いで車に向かっていた健一が玄関先まで戻ってきた。
ごめんごめんと言いながらキスすると、二人とも満面の笑みでこちらを見た。

「近所に丸聞こえだよ、もう…」
「あはは、いいじゃない。改めて行ってらっしゃい。」

そう言って今度は私がキスをして、健一を見送った。
里美のお迎えのバスが来るまで、あと少し。












夕方、買い物を済ませて食事の準備を始めようというとき、家の電話が鳴った。
慌てて軽くタオルで手の水分を切り、ディスプレイを覗きこむと、登録されていない番号。
いつもなら出ないで留守番電話に任せるのだけど、頭の4文字がこの近所の電話番号であることを表していたので、少し不審に思いながら受話器を取った。

「…はい。」
「あぁ、すみません。こちら××警察本署です。ちょっと確認したいのですがね…」


























里美が死んだ。
































轢き逃げだった。



うちの子だなんて何かの間違いじゃないの?
本当はまだ生きてるんじゃないの?
どこかで寄り道でもしてるんじゃないの?
こんな電話、ただの悪戯じゃないの?

だけど心は嘘として受け止めてくれようとはせず、頭の中は真っ白だった。
自分の心臓の音すら、聞こえなかった。
ただ、時計だけがいつもどおりに針を動かしていた。

感情のない警察官の声が、轢かれた女の子のいる病院名を教えてくれた。
そうだ、健一に電話しなきゃ…

「どーしたの?」

すこし長い呼び出し音の後、大好きな声が耳に入った。
その声の後ろで、カタカタと忙しそうな音がする。

「健一・・・すぐに帰ってきて…」
「は?何?なにかあった?」
「あのね…里美が…里美がっ…」



死んだ
なんて言いたくなかった。



二人で病院に向かい、流されるままにその子のもとへと向かう。
横たわったその子の顔。

里美の、寝顔だった。

里美、眠ってるだけだよね。
痛いよね。
大丈夫だよ。
けが、すぐによくなるからね。
少し入院したら、またみんなと遊べるからね。













犯人はすぐに捕まった。
だけど里美は目を覚まさない。
ずっと。



どうして里美だったの。

そんなこと言ったら、神様は怒るかな。
でもね、里美は本当にいい子だったの。
何も悪いことしてないの。

幸せは誰にでも平等って聞いたことがある。
ああ、あたしは幸せすぎたから里美を失ったのかなあ…

だったら幸せなんかいらなかった。
家が貧乏だったって
世間からなんて言われたって
里美が少し悪い子だったって
構わないのに。



里美、怒ってるかなあ。
ママ、泣き虫だねって呆れてるかなあ…。

里美、パパがね、
いってらっしゃいのちゅうは、里美のほうが上手だって。

里美、ママの子供に生まれてきてくれてありがとう。
パパもママも、里美のこと大好きだよ。
これからもずーっと。



おやすみなさい。
いい夢を見てね。
次に、目が覚めるときは
もっともっと幸せになってね。





















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友人から聞いた実話をもとに書かせていただきました。
被害者の娘さん・ご家族の方のご冥福をお祈りいたします。

詩音(2007.11.13)

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